教室通信

美しい、満月が世界を照らしてくれました。
与謝蕪村の俳句に、月天心 貧しき街を照らしけり というものがあります。
月の、静かで、内的な光が、ありふれた寂しい夜の街を照らしている、イメージがわいてきます。
犬が一匹鳴いているようでもあります。

11月は作品展、ランタン祭りと様々な催しがありました。
お母さん方、お父さん方の活躍で、素晴らしい会になりました。準備、バザーの品物の制作など、お疲れさまでした。親が作ったものを楽しそうに売り歩く子どもたちは幸せだろうな、と思いました。
また、ランタン祭りも秋の静かで心温まる夕暮れの中を楽しくそぞろ歩くことができました。
昨年は風が強く川に下りずに戻ってきたので、今年は、十分川沿いで楽しむことができました。

あたりは、今紅葉の真っ盛りです。
木々は、赤やオレンジや黄色に染まり、夏の間に静かに受け取ったものを色合いとして外に向かって表現しているようでもあります。
空気が止まった瞬間に、イチョウの木から黄色いしずくが垂れるように落ち葉が落ちてきます。
光を十分に吸い込んで輝きながら落ちていく落ち葉の後にやってくるのは、反射の光です。
壁に当たる日差しに心温まるものを感じます。これまで、葉を透かしていた光は、大地や木々の幹に差し込んでいます。すべては、静まり返って原初に戻った地面に太陽からの光は差し込み、表面で反射しながら、目に見えない大地の本質、木の本質を温めています。
冬の間、暗い中で暖め続けられた熱は、次の春の新たな芽吹きの力となることでしょう。

秋が深まり、木々も色づき始めました。静かな季節が訪れます。
先日、中国の上海に行ってきました。世界で一番大きい楽器の博覧会を見学するためです。
ガイドブックも買うことなく訪れたので、上海の街がどういうところかもわかっていなかったのですが、空港からは世界最速のリニアモーターカー(時速430km)を始めとして、世界で二番目に高いビル(632m)など、土肝を抜かれるものばかりでした。
それとは裏腹に、街中の地下鉄で行われている荷物検査、街のいたるところに立っているお巡りさんや警備の若者、監視カメラ、フェイスブック、ユーチューブ、ウィキペディア、などのページが閲覧できないこと、などなど、かなりの監視と制限の中で、街の秩序が保たれているのを感じました。
警備の若者たちはとても純朴で、街を歩く若者たちは、自分たちの街の豊かさに誇りをもっている様子がうかがえました。こういう社会に慣れている人たちは、自分たちがかなりの制限の中で暮らしているという不自由さは感じないのかもしれないと思いました。
それと比べて、日本ではかなりの自由が利きます。もちろん、中国の人たちと同じように、自分が気が付かない制限がかかっているかもしれませんが、それなのに、その自由を放棄しているようにも感じました。純朴で、純粋な若者たちの顔を思い浮かべるたびに、何も知らされずに、コントロールされて、純粋に育っていくのと、周りにたくさんの情報に取り囲まれて、たくさんのことを知らされすぎて、複雑で疑い深い人間として生きていくのと、どちらがいいだろうか?と考えました。もちろん、私自身は、コントロールされない社会で生きていきたいと思いました。
先日、東京の列車に乗った時、前の横一列の座席に座っていた人みんなスマホを見ていました。
私自身、そして子どもたちになってもらいたい目標は、周りに起きていることを知りつつ、情報の洪水の中で溺れることなく、自分の中に純粋な心を育てていくことだと思います。
そのための第一歩は、自分を表現すること、周りを表現することだと思います。
作品展ではお世話になります。

田んぼの稲が黄金色に色づいて、その周りには朱色の曼殊沙華(彼岸花)が色合いを添えています。春の、花の色合いの時期から夏を経て、またあたりには鮮やかさがやってきました。
夏の間、おとなしくしていた草たちも、また急に伸び始めています。
時を同じくして、堤防の土手や草原では、ススキの穂がその銀色のしぶきを空に向かって放っています。夕方、真上に半分の姿で出ていたお月様が、日々太りながら東の方に移動し、満月になったときに、中秋の名月のお祭りが訪れます。ススキたちもその準備で大忙しのようです。
春から夏にかけて、ススキは葉だけを茂らせていますが、穂はその根元あたりで、葉たちに包まれながら成長し、秋になって一気に立ち上がっていきます。
稲も同じように、その穂を根っこのところに携えていて、農家の人は稲の茎を触りながら、いま穂が真ん中あたりまで来ているな、と確認します。
いちど、麦が葉に包まれて根元のところで育っている様子を撮った写真を見たことがありますが、とても印象に残りました。子どもたちの内的な成長と重なるような気がします。
夏の間に、穂の出ていない、稲やカヤ(ススキ)を見て、その根元に穂のこどもが育っているのを想像してみるのも楽しいかと思います。
彼岸花に関して、最近知ったことがあります。それは、彼岸花は種を作らないということです。
ということは、彼岸花は球根で増えることしかできないことになります。
子どもたちに、球根と種の違いを質問すると地面の中か、植物の上か、という答えが返ってきますが、一番の違いは、球根で増えたものは同じ遺伝子を持っており、種で増えたものは、違う遺伝子を持っているということです。つまり、日本中の彼岸花は同じ遺伝子を持ったクローンということになります。最近見られる黄色い彼岸花はどうなんだろうな?とも考えます。
植物の世界は不思議です。

通信8月号雲の写真

いよいよ、本格的な夏がやって来ました。梅雨明け前の集中豪雨では、たくさんの被害があったことに心が痛みます。昨年大変な被害を受けた、朝倉の黒川地区では、人的被害はなかったものの、朝倉からの道路がまた崩壊して車が入れなくなっているそうです。大雨を想定して道路など整備されているはずですが、想定以上の雨が降っているのでしょう。夏のだいご味は何と言っても雄大な入道雲でしょう。真っ白い巨大な物体が、夕方にはピンクに染まっていく様に目を奪われてしまいます。その高さは、1万メートルにも及びます。1万メートルと言うとエベレストの8848メートルをしのぐ高さです。それに仰角(眺める角度)はエベレストの比ではありません。つまり、居ながらにしてエベレストより高い雪山を見ているようなものです。夕暮れの入道雲の染まり様は、8000メートル級の山の染まり方とよく似ています。夏の間、私たちの意識はこの白い雲に向けられています。白い雲に似合うのは、海や山や草原です。高原では白い花で満たされ、風に揺られています。私たちの意識は、まだ見ぬ世界へ向けられています。秋になって空が明け、私たちの意識が雲ではなく、青い空に向かうのとは裏腹です。

最近、自分が魅かれる風景について気が付いたことがありました。魅かれる理由の一つに、「その場所から眺めるとさぞかし素晴らしい風景が見えるだろうな。」と思わせられるところです。これから子どもたちは夏休みに入り、教室の合宿もあります。子どもたちはいろんな体験を通して、楽しい思い出を作ってほしいと思います。

先日からの教室総会や話し合い、ありがとうございます。皆さんの、教室に対するお気持ちがよく伝わってきました。これから、皆さんと一緒にいろんなアイデアを出していきながら、教室の活動が子どもたちにとってより、かけがえのないものになっていってほしいと思います。

福岡シュタイナー教室通信7月海の画像

梅雨に入っていますが、雨が降ったり、晴れたりの天気が続いています。そんな中、21日に夏至を迎えました。これまで、毎日朝が早く開け、お日様が遅く沈んでいましたが、21日から方向を変えて、今度は日々、短くなっていきます。今年の夏至は梅雨の間の晴れ間に恵まれ、高い空とともに太陽はその輝きを祝うかのように沈んでいきました。この夏至の後の624日にヨハネ祭です。洗礼者ヨハネをお祝いする祭りです。巨大なたき火をして火柱や火の粉や煙を空高く舞い上げます。洗礼者ヨハネはヨルダン川で人々を川の中へ長く浸けることで、人々の意識をなくし、新たな体験へと導いたと言われ、その中にイエス様がおられ、ヨハネの洗礼によって、キリストの霊が降りてきたと言われています。ルドルフ・シュタイナーは毎週の魂の暦の中で、以下のように書いています。世界に対して行為していくことの本質が表されているように思います。夏に向かって、子どもたちがたくさんの体験をしますように。

ヨハネの雰囲気

世界の美しさの輝き

それは私に、魂の深みから働きかける。

自分自身の中に息づく神の力を

世界の翼へと結び付けるように。

世界の光と世界の温かさの中で

信頼を胸に、

ただ自分だけを探しながら、

自分自身を置き去りにするように。

5月は天気のいい日が続きます。先日、まったく違った空が現れました。雨の次の日で遅くまで澄み渡り、夏の雲を思い起こせるような塊の雲が浮いていました。大麦の収穫時期で、一面黄金色の絨毯が風に揺られているかのようでした。はるかかなたには雲仙や多良山系の山々が青く、麦の黄色と美しい対比をなしていました。まるで空がめざめたかのようでした。この季節には、よく空気遠近法を使った絵を描いたり、トランスパレント絵の作品作りをしたりします。遠くの山になればなるほど、緑から青に変わっていくことを表現していきます。その際に変わっていくのは間にある空気の層の色であるということを理解しています。そしてそのことは対象を眺めたときにその対象に対する印象のような、眺めるものの感情を表しているかのようです。また、気持ちという言葉がありますが、空を眺めるときにそこに浮かぶ雲たちは、あたかも空気中に浮かぶ気(雲)を携えているかのようです。また、たなびく麦の穂は見えない風の存在を明らかにしてくれます。そのように、空気の存在は山や雲や植物たちの、色の変化、形の変化、動き、によってあらわされています。このような、空気の存在は私たちの中の感情的なものと呼応しています。-春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山- 万葉集に収められた持統天皇作のこの短歌は高校の頃に学校で習った句の中で今でも覚えているものの一つですが、白い衣(もしくは雲)が初夏の風にたなびいている気持ちを表したものです。5月から6月にかけて私たちの意識は、立ち上がって行く空気に向かっています。それを、吹き流しや鯉のぼり、旗などを通じて感じようとしています。旗やのぼりは私たちの心のひだのようなものです。私たちの中に、旗が高らかにたなびきますように。

彩雲の写真

ふと空を眺めると不思議な美しい現象が起きていることがあります。写真の現象は彩雲現象と言って、雲が虹色に色づく現象です。同じように雲が色づく現象に、幻日現象があります。時々ニュースでもこの二つの現象が混同されることがありますが、二つは全く違った原因で起きています。空の高いところにある雲は、小さな氷の粒でできていて、六角形の形をしています。それがプリズムの働きをすることで、虹が現れるのが現実現象です。そのほかに、氷のプリズムで起きる現象に暈現象、環天頂アーク、環水平アーク、タンジェントアーク、などがあります。これらの現象は、プリズムの役目をする氷の結晶が規則多々しく空に並んだ時におきる現象です。よく寒い地域で見られることが多い現象です。この現象を描いた本を最初にドイツのシュタイナー教員養成所で見た時には、何とも不思議な、少し怪しい感じがしたのを覚えています。一つ、一つその現象を実際に発見したときは驚きと共に、ゼミナールで見た怪しさが消えていきました。写真の彩雲現象は違う原因で起きます。それは回折という現象で、小さい粒が空間のなかにちりばめられている時に起きます。これは、光が粒子だけでなく、波動である証拠として高校時代に習ったように思いますが、まさか、身の回りに美しい現象として存在しているとは思ってもいませんでした。この現象は結構頻繁に起きているもので、空に注意していれば結構見つけられます。ただ、太陽の近くに現れるので、サングラスを掛けたりするとより見えやすくなるかと思います。私は彩雲を見るときのサングラスをサイウングラスと呼んでいます。とても素晴らしい彩雲に東京のお台場の近くにある東京ビックサイトという所で出会いました。余りのすばらしさに、橋の欄干に座り、ずっと空を見ていましたが、道行くたくさんの人たちは誰も気が付きませんでした。。高校の学びの中で、これらの美しい自然現象と関連させて学んでいればもっと興味が持てたのに、と思います。少し難しい話になってしまいました。私たちが、気づかない間に空では素晴らしい現象が起きているかもしれません。時々空を眺めてみてください。

Our latest post

Archive